わずかに潮の香りがした。海の町に来たのだなと思った。時刻は18時を回り、町はひっそりとしている。旅館の汚れた看板が、アーケード街へと続く道の上に掲げられていた。シャッターが閉まっているお店は土産屋だろうか?アーケード街の天井には、ツリーの形をした電飾が施されていた。だが、それを眺める人はなく、町は静かに僕らを出迎えていた。
熱海に訪れたのは、いつ以来だろう?たしか、中学生くらいのときに親戚と一泊旅行に来たことがある。記憶の断片を拾ってみると、花火に彩られた熱海の町の光景を思い出す。宿泊していた部屋の目前に大きく打ち上がる花火。それを見上げるたくさんの観光客。花火がボンボーンと弾けるたび、まるでフラッシュライトに照らされたかのように、海岸線に沿った町並は浮かび上がった。記憶のなかの熱海は、歓喜と熱気が渦巻く華やな町であった。
地図を頼りに商店街を下っていくと、ちょうど閉店作業をしているおばさんがいた。赤ちょうちんの店からは、誰かの歌声が聞こえてくる。すれ違う人たちは、イルミネーションの下を早足で歩いていく。商店街を抜けると、大きな交差点があって、そこから海方面へと続く勾配の急な坂を下った。海からの湿った風が、道路を伝って頬を打つ。坂の中腹のあたりに見晴らしのよい場所があり、熱海港の光が眼下に見えた。海岸線を縁取るように連なる光。反対側の大きな暗闇には、赤や緑に点滅する光があった。停泊している漁船や監視船だろうか。わずかに揺らめくその光が、静かに波打つ海の存在を示していた。
宿泊するホテルに到着すると。速やかにロビーでチェックインを済ませた。ロビーはしんと静まり返っている。僕らの他には誰もいなかった。エレベーターに案内されると、僕らは7階の宿泊部屋へと向かった。
外観は古くても、中は昔ながらの旅館といった佇まいで、綺麗な畳と大きな窓から一望できる景色はなかなかのものだった。施設内には天然の温泉もあるらしい。行ってみようと思ったが、まずは夕食を何とかしなければと再び商店街に出ることにした。
先ほどより更に人の姿は減り、シャッターの降りた店も増えていた。あまりのんびりと店を選んでいる余裕もないらしい。とりあえず、目に入った近場の寿司屋に入ることにした。店内は2、3組の客がいて、普段はあまり飲むことのない焼酎と握り寿司を注文した。海が近いこともあってか、ネタはどれも新鮮だった。店内はとても静かで、職人が仕込みを行う音と家族連れの談笑が聞こえるだけだった。酒をじっくりと味わいながら、旅先の余韻を噛みしめて、テーブルの上の寿司をまたひとつ摘まんだ。
ホテルに戻り軽く酔いを覚ましてから、温泉に入ることにした。浴場には数人の宿泊客がいるだけで、貸し切りのように広々としていた。ゆったりと湯につかりながら、湯気で曇った大きな窓の向こうを眺める。熱海の町があった。夜空に花火が舞っていた真夏の熱海とは違っているけれど、こんな静かな熱海もいいなと思った。
翌朝、チェックアウトをしてから、商店街を再び訪れた。休日の昼間ということもあって、客足は増えていたが、活気や賑わいといったものはあまり感じられなかった。だけども、活気に満ちた人の賑わう場所に訪れることばかりが旅ではないのだ。華やかではないイルミネーション。早々に閉まってしまう商店街。一見すると、何の魅力も感じられない閑散とした観光地だ。だけども、都会の喧噪を避けて、ふらりと入った店で安い焼酎を飲みながら、期待もせずに頼んだあじの刺身に舌鼓を打ち、貸し切りのような温泉で物思いにふける旅があってもいい。
帰りの道中は旅の余韻を味わいながら、外の景色をボーッと見つめていた。家に戻れば、またいつもの日常が始まるのだが、昨夜の静かな町の風景が、僕の頭のなかにはずっと浮かんでいた。
【日々日常の最新記事】

